20121231

Howards End (1992)





1992年の作品、「ハワーズ・エンド」。
原作はイギリスの小説家E.M.フォースターが1910年に出版した同タイトルの小説です。
またエマ・トンプソンとアンソニー・ホプキンズなわけですが。どうしてこのキャスティング~。


実の実は、2013年初映画はこれでした。
ちょっと年明け早々にしては、もやっとするチョイスだったかも…。







最初は面白かった。ヘレンが失恋っぽいものをして、なんかダメンズ好きそう~な感じで。そしたらなんかヘレンおっちょこちょいなんだから!(ぺろ)人の傘持ってきちゃうしー。バストさんかわいそうでしょ☆みたいな。マーガレットは貴婦人とお友達になってー。ちょっとマニッシュな格好で時代の最先端な思想持って―みたいな。


で、どこからだろう。すごーくドロドロした展開になってきたのは。


この登場人物たちを見てみると、ウィルコックス家は上流(それでも貴族ではなくて、資本家として成功した系の)、シュレーゲル家は中流階級、そしてバストは労働者階級。イギリスの階級っていうのは大部分が決まっていて流動することはない。結婚とかを除いて、基本的には変わらない。その結婚も身分相応の者とするのが普通ではあるけども…。

マーガレットはウィルコックスの妻になった。ヘレンも結果的には上中流階級ということになる。彼女らにはバストのような人たちの生活がわかっていない。偽善的な部分が見え隠れしている。けれど、悪く思えないのはマーガレットが純粋だからなんだよね。個人的にこういうタイプは苦手ではあるけれど笑。


でも、最後まで闘ったヘレンは偉い。といいたい所だけれど、結局バストは死んでしまう。なんだかギャッツビーの社会的地位が逆バージョンみたいな感覚。バストが生きている間は、彼の事を想ったりなんだかんだするけど、死んだからといって何かが残るわけではない。バストという労働者階級の男性が一人死んだからといって、彼女たちの生活に何か変化が訪れたわけでもない。ただ、ハワーズ・エンドは得ることができたけども。そこがこの映画のもやもや感を生み出してるのかな。労働者階級には希望もない。中流や上流の踏み台にさせられるだけで、自分の人生をろくに生きることもできない。


なんだかどの展開も中途半端な感じはした。けれど、全部最後のバストの死によってその感覚は消えて行ってしまう。それだけ、彼の死のインパクトは観客には強いけれど、お話の中の人たちにとってはそうでもないんだろうね。

あとはマーガレットが普通の女性になってしまったことからも、なんだかこの物語に希望が見いだせなかった。とても爽やかなエンディングになってるけど、ちょっとしんみりとしてて暗め。


これも読むリストに入れなければ。
バストのアパートの家、本当に寝れるの?っていうくらい電車の音と光、睡眠妨害とかいうレベルじゃないよ!都市に住む労働者たちの環境はやっぱり考慮されてなくて辛いものだったんだろうなーと思った。

んーでもやっぱりエマ・トンプソンとアンソニー・ホプキンズに鳥肌が。





★★★☆☆
Dir. by James Ivory (ジェームズ・アイヴォリー)
Screenplay by Ruth Prawer Jhabvala
Music by Richard Robbins
Cinematography by Tony Pierce-Roberts
20121230

The English Patient (1996)




キャッチコピーが気に入ったから、
        迷わずイカガワシイ方にする。 




はい、よくわからない。同じように映画もヨクワカラナァーイ。
これであれだけ賞もらえるんですか。90年代ってヨクワカラナァーイ。
左のポスターの方がスタイリッシュで素敵。笑


1996年の映画、「イングリッシュ・ペイシェント」はマイケル・オンダーチェによる同タイトルの小説(1992)のアダプテーション。彼はスリランカ生まれのカナダ人らしいです。御先祖さんは移住してきたヨーロッパ系と現地の人たちらしいです。ここからしてもう何人という感じねー。


キャッチコピーである"In love, there are no boundaries"(愛、そこには境界線などない)がすべてを物語ってると思う。地図製作者のアルマシーの無国籍性(本当はハンガリー人)、砂漠で地図という境界を作る仕事の無意味さ、などなど。

現代の時間軸では連合軍も国籍がバラバラ:フランス人のハナ、そんなハナと恋に落ちるシク教徒(インド)のキップ、イギリス人のハーディー、戦車で現れるアメリカ人兵士たち。そしてイタリア系カナダ人のカラバッジオ。敵としてドイツ兵も出てくるし。


多文化主義的な傾向にあった20世紀後半を見ると、だからこんなにも好評価なのかなーと思ってしまう。なんかごちゃごちゃしすぎて、苦手だなーと思いながらみてしまったのがいけないのかな。
コリン・ファースの狂ってないようで狂ったかのような自殺っぷりはすごかったです。そこだけ。


レイフ・ファインズ、かっこいいんだけどリーアム・ニーソンと若干かぶる的な。

やっぱりラルフ・ファインズのが断然イケメン


でもそれよりもブラッドレイ・クーパーとの双子加減やばい的な。
でも私はファインズの方が好きだわ。うん。
ちなみにぐぐる大先生の画面を見ると、なんだかゲシュタルト崩壊してきます。おためしあれ

クリソツー

てかジョセフ・ファインズと兄弟とかウソでしょ… 弟ラテン系の顔やん…


え、兄弟?


★★☆☆☆
Dir. & screenplay by Anthony Minghella (アンソニー・ミンゲラ)
Based on a novel by Michael Ondaatje
Music by Gabriel Yared
Cinematography by John Seale
20121227

The End of the Affair (1999)





1990年代映画週間になりつつありますが…、今日は1999年「ことの終わり」という映画です。
Rated R らしく、日本だと中学生以下は見れないらしいですよ。これほんと?
これの原作は20世紀の英作家グレアム・グリーン(Graham Greene, 1904-1991)の同タイトルの小説です。文庫の邦題は映画版よりも原題に忠実、「情事の終わり」です。
ちなみにGrahamはグラハム・クラッカーと同じだけど、グラハムではないのです…出た、読み方と綴りがマッチングしてないパターン。






ん~なんというか、これまた書くことがない…。
原作が小説だと知らなかったら、よくあるロマンス映画って思ってしまったかも。
ジュリアン・ムーアは、最近のを見てるとレズビアン系に走ってしまってる感があるので、ちゃんと男性とのシーンもあるんだ…と驚きました(そこか)。


映画の語り方としては良かった。小説の中の出来事という枠組みだったのが、後半に現実で続きがおこるという部分が。そして、それらの流れがまた別の異なるの視点(サラの日記という枠組み)からも繰り返される部分が。男からの視点と女からの視点の両方があって、ようやく辻褄が合うんだけど、そこで映画自体が終わらないのも良かった。

嫉妬に狂った主人公モリス・ベンドリックスが、不倫相手サラの素行を調べようとして探偵を雇う所から始まる。それは、友人でもあるその夫が、妻が誰かと密会していると疑っていることを知ってからのこと。自分以外の男性と交際してるのかってベンドリックスが嫉妬してね。彼はサラを愛してるけど、二人の間に起った事柄を思い返すと彼女の方は違う。そのうち、彼女の愛人は自分だけって判明するんだけどさ。


イギリス小説には「カトリック」がテーマになっている作品が多い。英国自体はプロテスタントだから、カトリックというのは葛藤とか問題となって小説上表れてくる。例えば、イーブリン・ウォー(Evelyn Waugh)のBrideshead Revisited (「ブライズヘッドふたたび」、映画は「情愛と友情」)でも物語の中心テーマとしてカトリックの問題が扱われている。多くの場合、作者自身がカトリックである場合がほとんどなんだけど、グレアム・グリーンもそうらしいです(彼の場合は最初からではなく、後に改宗したんだって)。だよね。終盤になって「神が神が」ばかりだなーって思ったよ。つまりは、最初から宗教要素上手くちりばめとけばよかったのに。急になんか胡散臭くなって、それで病死か。典型パターンじゃねーか、と。


きっと小説でなら、納得できたと思う。
ただ映像化してしまうと、陳腐なものになってしまう、かなぁ。



あとは、あのブリッツの時に、不倫という罪を犯してしまった二人に天罰が下ったという解釈でいいのかな。モリス=キリスト(爆撃を受けた時の背後がステンドグラスということは、教会でのイエス像の背後のそれのイメージ)で、彼を犠牲にしたから救われるという具合に…だからあの時二人の間の全てが変わってしまった。彼の復活はまさに奇跡であり、神聖。モリス自身が無神論者という設定が何とも皮肉。



というか、途中で観てて思った。Gossip Girl でこの映画のオマージュシーン出てくるよね!?シーズン5で、ブレアが「チャック死なないでぇぇ!」って神様に祈り「生かしてくれたら私もう会わないからぁ!!」、後に背後から「チャックさん、生き返りましたよー」みたいになるシーン。すごく聞き覚えのある内容と思ったら、本当にそうだ。この回のタイトルが"The End of the Affair?"でした。下は左がブレアさん(Leighton Meester)と右がサラさん。この二人、顔の系統似てるね。レトロが似合うお二人だ。




そしてムーアさん、イギリス英語ですね!!きました!ギャップ!といってもそこまでなかった…。そもそもセリフが少なかったな。



★★☆☆☆
Dir. & screenplay by Neil Jordan (ニール・ジョーダン)
Music by Michael Nyman
Cinematography by Roger Pratt
20121226

Gattaca (1997)




今回の映画は全くイギリスでもない、文学でもない、1997年の「ガタカ」というSFです。
あ、唯一「イギリス」ちっくな部分と言えば、ジュード・ロウが出てくるところかしら。かっこいいね。妙に嫌な感じの役がぴったりくるM字ハg彼ですが。…これでもほめてます。

このお話は"not-too-distant future"に設定されています。「そう遠くもない未来」。この映画ができてから15年は経ってますが、遺伝子でその人の将来がある程度予測できてしまう時代までは、もう少しかかりそう。





なにさま映画評 →→→→→さんでとてもわかりやすく解説されていて、こちらを読んで「うむうむ、ふむふむ」と思いながら読まさせていただきました。宇宙である意味、海のシーンの意味。他にもいっぱいガタカに関して解説されてるサイトさんはあるので、あまり今日は書かない!


この映画を観終わって思ったのは、なんだか爽快感がない。ちょっともやもやしたものが残ってる感じ。確かに、ヴィンセントは彼の夢を果たして宇宙へ飛び立つ。けれど、それで感動的な音楽に乗せられて、「あ~よかったね!!!」よりは、これってどうなの?と思うんだ。彼は30で死ぬだろうと生まれた瞬間宣告されて、けれど今のいままではなんとか生きてる。けれど、宇宙に行ったらどうなるだろう?もしかしたら土星に着く前に、今度こそ死んでしまうかもしれない。彼には将来って言うのが手さぐりで、常に体当たりしながら生きていかなければならない。しかもナレーションに、"We came from the stars so they say, now it's time to go back"(「俺たちは宇宙の星から生まれたと言われているけど、いよいよ戻る時がきた」)というセリフがあるけど、ここでもやっぱりヴィンセントが死んでしまうことを暗に示してるのかも。だからなんだと思う、安心してよかったねって言えないのは。hopeがない。


もちろん、ジュード・ロウ演じるジェローム・ユージーン・モローの最期も、そのもやもや感を助長させる。なんで彼は死んだのか?これも散々議論されてるとは思うんだけども…

彼は優等な遺伝子を持ちながらも、得意の水泳では常に2位という結果に歯がゆさを感じていた。そんな劣等感から、彼は自殺をしようと車の前に飛び込んだ。けど、死ぬことはできなくて、水泳もできない、足が使えない生活を送るはめになった。でもね、彼はきっとやけになって自殺を試みたんだと思う。というのは、彼が本気で死のうと思ったら未遂で終わることはないだろうから。周りから何の期待もされない自分になりたいという、ある意味現実逃避のような形で、彼は足を犠牲にしたんじゃないのかな。

ポスターに書かれてる"There is no gene for the human spirit"からもわかるように、どれほど科学が発展して、この映画の世界のように遺伝子がすべてという時代を迎えても、人間の精神だけは操作することができない。ユージーンには優等な遺伝子を持ってる者としてのプライドはあるけど、自分の弱い精神では十分に生かせることはできないと思って、第三者に自分の遺伝子を売ってみようと思ったんじゃないかしら。それは本当に自分の遺伝子は優等なのか、それとも自分が弱いから生かしきれないのかを確かめるという意味で。そこで印象に残るのは、ユージーンが刑事さんに「癪にさわるんだろ?俺にあんたが夢見るしかできないことができるってことがよ!」って言う場面。彼は、自分の遺伝子が優等である確信を得たからこそ言えるセリフだと思う。

ただこれは、この映画の中で二人いる「ジェローム」のアイデンティティに関わる部分だし、それ以上は深くなるから追及しないけど、とりあえずヴィンセントとユージーンの二人が居て初めて1つの完璧な個体となる(元々仲介者もお前たちクリソツだよ!!と言ってたもんね)。

で、ユージーンは死ぬわけなんだが…。
ヴィンセントがユージーンの代わりに彼の遺伝子で目標を達成したから、だとは思うんだけども。「ジェローム・モロー」というアイデンティティが完全にヴィンセントに持っていかれてしまったことで、ユージーン本人は抜け殻のような状態。アイデンティティを失くした彼は生きていく意味はもうないと思ったから自殺したんじゃないのかなと思った(ちょっと暗すぎ?笑)。焼身自殺という手段も、確かにロケットの炎を映すことによって私たちは理解するけど、ヴィンセントが度々言及する「原子に帰る」と同じように「塵に帰る」的な意味合いがあると思いました。彼なりの宇宙への還り方なのかな。

(ちなみにここのベストアンサーで感銘を受けたのが、「最後にユージーンのメダルが炎によって金になる」という部分。ほわーそういうことね、と。素敵だ。)


ただ気になるのは、ヴィンセントに"you just have to fill in the last two years of [Eugene's] life"と遺伝子売買の仲介者がいってること(スクリプトを見てるので、実際映画でそれを言ってたかは忘れましたが…)。これが本当だとしたら、ユージーンは遺伝子学的な余命があと2年しかないということになって、解釈が変わってくると思うんだけど…。

最後に、ジェローム・ユージーン・モローの名前なんだけど(Jerome Eugene Morrow)

あー、ジュード・ロウかっこいいわー。

Eugeneはわかりやすいね、gene(遺伝子)って言葉が入ってる。ジェロームも、genetics(遺伝子学)と同じ"ジェ"の響きがあるなーと思うのは深読みしすぎかな。実際は「聖なる名前」という意味らしいです。モローは、近い将来とか、朝という意味(tomorrowのmorrowと同じ)。なんとなく、ここだけで映画のテーマがわかりそう。



あとは、ユマ・サーマンの無機質感がかっこいい!黒白で、ガタカのストイックさを示すような衣装と、無駄のないオールバックのおだんご。冷たい、クールなまなざしと情熱的な赤い唇。建物とか小物とか(下のヴィンセントが読んでる本とか)にも言えることなんだけど、レトロ感と近未来感の融合がたまらなくいい。




★★★★☆
Dir. by Andrew Niccol (アンドリュー・ニコル)
Music by Michael Nyman
Cinematography by Slawomir Idziak


20121220

The Hours (2002)




英文学史の授業で紹介されていた映画。
ヴァージニア・ウルフについての映画ってあまりないと思ってたので朗報でした。

日本語タイトルは「めぐりあう時間たち」(正直、私はこのタイトルに納得してませんっ)。

あ、英文学カテゴリーに入れたのはV.ウルフについての内容なので。
原作はアメリカ人のMichael Cunninghamが書いています。




お話としては、「ダロウェイ夫人」(V.ウルフの著書の中では最も有名)を中心に、3つの時代それぞれに生きる3人の女性に焦点を当てている。まず1920年代に「ダロウェイ夫人」を執筆中のヴァージニア・ウルフ、1950年代にその「ダロウェイ夫人」を読んでいるローラ・ブラウン。で、現代の「ミセス・ダロウェイ」というあだ名がついているクラリッサ・ヴォーン。クラリッサに関しては、描かれている彼女の一日が「ダロウェイ夫人」の内容そのままとなっている。

しょっぱなのシーンがウルフの入水自殺から始まってそれで終わるように、結構暗ーい感じ。


3人それぞれが、傍からみれば幸せな生活を送っている中で、孤独を抱えている様子が描かれている。その中でもかわいそうだなと思ったのは、ジュリアン・ムーアが演じるローラかも。彼女にとっては「家」っていうのが苦痛でしかなくて、けれど戦争から帰ってきた夫にとってはそこが幸せだという。彼女の生活は、すべて戦ってがんばってきた夫のために作られていて、彼女本人の幸せではないことが、家の中での沈黙加減からもわかる。妊娠してるから余計にブルーになるのかもしれないけど、とにかく自殺しようとするまで追い込まれてしまう彼女は本当に見ててつらい。



同じく、リチャードはクラリッサのために生きてきたと言ってることから、AIDSに侵されてもなお、生きなければならなかった彼もきっと辛かっただろう。結局彼は自殺してしまったけれど。




ウルフでよく言われるのが「意識の流れ」の技法。それと「気づき」の瞬間。そういうのが、例えばこの映画だと卵を割る音や、街の喧騒というノイズを私たちに意識させることで、キャラクターたちの心情を描き出していると思う(苛立ちとか)。また、リチャードが遠い昔、クラリッサと迎えた朝が綺麗だったっと言っているけど、それはなんでもない、"ordinary"(「平凡」)な朝だった。それでも確かに、その瞬間だけは記憶に焼き付くほど美しかった。この映画は、そんな瞬間や「気づき」を愛しながら生きてゆくことが大事だと言っている。



きっと、ローラだってそういう瞬間があったかもしれない。けれど、彼女はそんなことに気を囚われている暇はなかった。彼女は孤独につぶされる前に、選択肢を選ばなければならなかった。ウルフも同様に。その選択肢は生きるか、死ぬかであって、前者は生きること、後者は死ぬことを選んだ。

その選択をする間の時間が、つまりは"the hours"なんだと私は思う。死を想うこと、生を想うこと。人は常に生と死の選択肢を選ぶときには、それについて考える時間が必要だから。この映画は各時代のそんな1日を描いたもの。人間って変わらないってことよね。その一日の何時間かの間に、3人はそれぞれの決断を下した(といっても、現代の場合はクラリッサというよりはリチャードに焦点を当てるべきだけど)。

だから「めぐりあう時間たち」っていうタイトルに納得いかないんだよね。「1冊の小説『ダロウェイ夫人』を接点にして、[それぞれの]時間枠たち(the hours)が“めぐりあう”物語」(ここ参照)だと言ってるんだけど、う~ん、と。確かに、ローラとクラリッサは"めぐりあう"しー?そうはそうだけどさぁ…。聴こえ的にもいいしね。これで仮に「生と死までの時間」というタイトルとかでも見る人はいないだろうし、第一なんの映画だよってなるわ。

いつも思うけど、邦題って本当に大変だよね。え、なんでそうなる?とか本当に適当なタイトル(なんか有名な作品もじったり)ばかりでたま~に「は?」って思う。英語が普及してない日本だと、やっぱりそのままのタイトルじゃだめなのかね。変に訳さなければいいのに、とよく思うわけですな。もちろん、いい邦題もたくさんあるけどね!


あとは、「死」そのものの問題か。ヴァージニアは「誰かが死ぬってことは、周りの者が生きてることをよりありがたく思わなきゃいけないってこと」って言ってるけど、本当にその通り。深く見れば、哲学的な映画かもしれない。とてもとても孤独感が強い映画でした。


ちなみに、「ダロウェイ夫人」ではお花が頻繁に出てくるけど、最初のシークエンスで各時代に登場する花が赤・黄色・青(だっけ?)でなんかかわいい。あとニコール・キッドマンのお鼻はつけ鼻だと知ってから、ずっと彼女の鼻に釘付けになってしまいました。あはは。



★★★★
Dir. by Stephen Daldry (スティーブン・ダルドリー)
Screenplay by David Hare
Music by Philip Glass
Cinematography by Seamus McGarvey

Jane Eyre (2011)




やっと観た。
英文学で「governess」(雇われの女性家庭教師、大体住み込み)といえば、この作品。

2011年公開の「ジェーン・エア」だよ。
買って良かった!
シャルロット・ゲンズブール版(1996)よりは上手くまとまってるんじゃないかと思われ!
以下、思ったこと。原作に対する、この映画のinterpretationの仕方を考えてみました。








原作は、ジェーン・エアという主人公の半自伝的小説。孤児ゆえに、叔母のリードさんの元で育てらるんだけど、この叔母さんの家族が本当に酷い!ジェーンを人間として認識してくれないし、従兄弟たちに(特に長男のジョン)からも酷い仕打ちを受ける。けど、ジェーンは果敢にも彼らに反抗する。


そんな「悪い子」ジェーンは、リード家がすんでるゲーツヘッドを離れてローウッドという施設で教育を受けることになる。ここの施設も現実のどん底のような世界で、生徒いは酷くて、食事もろくに食べさせてもらえない。全員女子なのに、先生たちは普通に生徒を叩くし、管理がなってないから疫病で半数の生徒が死んでしまう、そんな学校でジェーンはヘレン・バーンズに出会い、唯一仲良くなる。けど、やがて彼女も持病で死んでしまう。



そんな凄まじい生活を生き抜き、ジェーンはようやくローウッドを出て、ソーンフィールドというお屋敷で家庭教師として雇われる。そこでそこの主人であるエドワード・ロチェスターと出会い、様々な(というか奇妙、それより恐怖を煽るような)事件を通してお互い恋に落ちるんだけど…









制作者たちも言ってるように、ゴシック要素が多い気がする。雰囲気をとってみても、全体的に色のトーンが抑えられていて、なんだか薄暗い。イギリスっぽい?といえばそうかも。

ボーナス映像の方でも解説してたけど、「光」がキー。特にそれが顕著なのはソーンフィールドでのシーンたち。最初にジェーンが訪れる時も夜で、ロウソク或いは暖炉の灯りだけしかない。ジュディ・デンチが演じるフェアファックスさんも、ソーンフィールドの暗さについて言及してるし。当時の生活を考えれば、電気がないのは当たり前なんだけど、それが余計にこの話に潜んでいるダークな部分を示唆している。製作者たち曰く、暗闇に対する「恐怖感」を演出しようとしてたらしく、それが物語のゴシック性を強調してるというわけなのかしら。

あと、夢。
ゴシック小説には、超自然現象とか夢、というか「悪夢」がよく出てきます(エミリー・ブロンテの「嵐が丘」もそう)。反対に、オースティンのようなリアリズム小説には全く出てこない。この映画では、ジェーンがリヴァーズ家で朦朧としている中、彼女自身の生い立ちが説明されている。つまり、幼少期からソーンフィールドを出るまでの部分は、彼女にとっての悪夢とも言える。

その根本にあるのは、リード叔母さんもそうだけど、なんと言ってもバーサ・メイソンの存在じゃないかしら。ロチェスターの戸籍上の妻である彼女がいるから、ジェーンはロチェスターと結婚することができなかったし。彼女はソーンフィールドの生きた亡霊で、物語のキーキャラクターだ。バーサの死によって物語はハッピーエンドを向かえるけど、妻が死んだことでジェーンはソーンフィールドでの「幽霊」的な存在感から本妻として認められる。ロチェスターの元にちゃんと人間の姿をしたジェーンが現れるし(最後のセリフも"Awaken then"って「夢から覚めなさい」だし)、幻聴(超自然的状況)でしかなかったロチェスターのもとに帰れることができた。これら全がてゴシック的要素として取り入れられ、最後には解決で終わるという構造になってる。



あと、ロチェスター氏についてなんだけども。
彼はソーンフィールドの当主だから、実際は労働者階級のジェーンと結婚することは許されないはず。ジェーンはただでさえ全くかわいくないから(という設定)、ロチェスターとは不釣り合いなんだよね。で、彼は登場からして'masculine'さが強調されている。あんなにも強暴な馬を乗りこなせるくらいの力が彼にはある。彼が所有しているソーンフィールド(「棘の野原」)も彼の力や性質を表してる。そんな強い男性という像は、ジェーンの前では次第に崩れて行く。それが決定的な場面は、真夜中の火事事件じゃないかしら。ことが収まった時のロチェスターは、とても弱々しい。
Jane... fire is a horrible death. You have saved my life. Don't walk past me as if we were strangers
ここで初めて、彼はジェーンの名前を呼ぶ。彼が彼女を信頼していることも見て取れる。他人を遠ざけているのはロチェスターの方なのに、「見知らぬ人のように振舞わないでよ」ていってる。また、「私を置いて行くのかい?」と二度も言葉にすることからも分かるように、彼は本当は寂しい人間なんだということが微かに分かる。彼も人間なんだなーって思うと可愛く見えるよね。ツンデレじゃーん、かわいい、ぐへへ。


話が脱線するけど、彼の好意に気づきながらも、ジェーンはそれに答えようとしない。

明け方のこのシーンは柔らかい光が幻想的な効果をもたらしてて、まだ二人が夢の中にいるかのように感じられる。ジェーンを求める(チャラげな)ロチェスターと、幼さを残したジェーンがなんとか彼を拒む様子。それは見ている人をドキドキさせる、印象的なシーンなんじゃないかなと思う。(ん?私がドキドキしただけか、そっか笑)


一番ドキドキしてしまったシーン、はい。

で話を戻して。ロチェスターは社会的には強さを誇示しなければならない立場にあるんだけど、それはイングラムとの関係からもみることができる。

この時代(ヴィクトリア朝)は、イギリスが大英帝国として世界に進出する時代 (これは他のシーンで、ジェーンがアデルに地球儀を使って説明してるよね)。当然、男性には男らしさや力強さが求められた。イングラムのこのセリフには、当時の社会の考え方よく現れている思う。女性は男らしさに魅力を感じるわけね… 「男の美しさは権力によるものよ」って、恐るべしイングラム。現代の肉食女子でもこんなの言わないよ。

彼女の前では取り繕ってるロチェスターでも、きっとそういった評価が更に彼を弱くさせているんじゃないかなと思った。彼もイングラムは"machine without feelings" (「感情のない機械だ」)と批判するしね。つまりBritannia(大英帝国)が"she"で示されるように、イングラムはある意味、機械の発展によって成立した大英帝国を象徴する人物なのかもしれない。



イングラムとは対照的に、ロチェスターにとってジェーンは"rare, earthly thing"(直訳すると「珍しいこの世のもの」)なわけだが、ここにはこの時代にも見られた(産業革命の反動である)ロマン主義的な考えが反映されてるのかも。(深読みしすぎ?)

つまり、ロチェスターからしてみれば、ジェーンはイングランドの自然のように素朴な、心地よさや温かさを象徴している。ジェーンとロチェスターが恋仲となった後、太陽の光と、この作品の中にしては珍しいピンクの花の木のカットがあったり、自然の中で戯れている二人の姿があることからも分かるようにね。




二面性があるロチェスターとは反対に、従来から存在する女性像に真っ向から反抗しようとするのが、ジェーン。

シン・ジン、予想外に二枚目系…


彼女がシン・ジン(彼女の従兄弟、St. Johnという綴りだけど、発音の仕方は「シン・ジン」らしい)の求婚を「あなたとの結婚は死ぬのと同然」と拒否する時も"That is violent, unfeminine, untrue"(おおざっぱに言えば、「そんな暴言は女性らしくない」)と言われるんだけど…冷静に考えて、酷くない?笑 原作でも「女性としての自立」っていうのは大きなテーマになってるわけだが、シン・ジンはそれをジェーンにとって困難にさせるやっかいな精神面の自立を促すキャラクターとして登場する。この映画だとインドへ行く彼についていくとジェーンは言うけど、それは結婚じゃなくて同行という条件で。インドへ行くなんて結構柔軟な発想を持っている彼なのに、結婚が大前提っていう彼の頭の固さは、ジェーンには通用しないのよね。

女性像の問題はロチェスターとの間にも存在する。ロチェスターの元から逃げたのも、もちろんジェーンが自身の自立を守るため。彼女がウェディングドレスを脱ごうとするシーンの、何重にも編まれてる糸や重ねに重ねてある布は、彼女が結婚制度という女性を家に閉じ込めて不幸にするといったような、従来の結婚制度或いは女性像に囚われている状況を示してる。彼女の動揺は画面の揺れからも伝わってくる。ジェーンは重婚をしようとしたロチェスターに怒りを感じつつも、結婚という女性の自由を奪う社会の制度によってロチェスターを得ようと思ってた自分に絶望しているんじゃないかな。




欲を言えば、ローウッド時代をもう少し描いて欲しかったかも!原作に出てくるテンプル先生が出てこないんだよね。彼女がいないと、何でジェーンが不良というか、悪い意味でひねくれた女の子にならなかったのかという説明がつかない気がするんだ…


あとキスシーンがとてもぎこちないww
相当awkwardだよ!年齢差?何がいけないの?
というか、なんかイケナイもの見てる気分になるのはなぜ?笑


マイケル・ファスベンダーのアクセントが普通すぎて(よくない意味で)気になってしまったけど、彼の瞳は印象的。


このおめめ。

少年というか、弱い部分もしなやかで力強い部分も包含してる。というか、ロチェスターはこんなチャラいのでいいのか… かっこいいけどさ… かっこいいんだけどさあ… でもDangerous Methodの時とは雰囲気違って、自由に変幻できる役者って凄いなーと思った。声が特徴的だね。不思議な声してるから一発でわかる気がする。


ミアちゃんはー、見てる間に慣れた。ヅラ感が否めない笑。ロチェスターが暖炉の前で縋り付いてる時の、泣きながらの"God help me"がとても印象的。

あと、ナイトレイ版の「プライドと偏見」のダーシーの妹さん、リバーズの従兄弟の一人だったね。
かわらんのう。
この子。



以上。面白かったし、映像も綺麗!まるでMVを見ているよう。
Birdyの"Skinny Love"を思い出した。



それくらい画面の構造がとてもスタイリッシュだったと思います
時代劇としてもオススメだし(衣装やら部屋の装飾とか。実際に、アカデミー賞の衣装デザインノミネートされたらしいです)、原作ファンでも観れる映画になってると思いまーす!


★☆
Dir. by Cary Fukunaga (キャリー・フクナガ)
Music: Dario Marianelli
Cinematography: Adriano Goldman


 

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