20160329

桐島、部活やめるってよ。

桐島、部活やめるってよ。


桐島って?というところからかもしれない。

私がこの作品に、邦画であるにもかかわらず、興味を持ったのは神木くんが出てるからでは決してない。
うん、見た目好きなほうなの。ありがちでしょ。

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」との関連性があると聞いたから。

確かに、最後まで不在のゴドーと桐島は似ている。

とくに、パーマくんとヒロキくんと帰宅部が、桐島を待つためにバスケットをしている。
突然に「あれ、なんで俺らバスケットしてんだっけ」となるシーンがある。
(ちょうどそのとき、吹奏楽部の部長女子とリョウヤが屋上を譲る・譲らないと言ってるシーン)

形式的なバスケの男子たち、上に憧れを抱く中の吹奏楽部部長、最下位の映画部。
サックスの部長は桐島に左右されるヒロキくんを見失ってしまうだけで、自分がなぜその屋上にいるのかわからなくなってしまう。その意味を見失ってしまう。

ブレないのは、ヒエラルキーの最下位の映画部。
もさくてダサくて、けれど一生懸命やってる彼ら。


一瞬で「バスケをする」という放課後の日常的な青春の意味がなくなっちゃう。桐島という存在がいなくなるだけで。しかも特に対戦相手のいない、相手から点を奪って稼ぐわけでもないお遊びのバスケ。俺ら、何してたんだろうなって。

スクールカーストの上の人たちは、その狭い学校社会で、ある意味形式的ですごくつまらない生活を送っている。ヒロキくん、終始つまらなさそう。

ヒロキくんの彼女だってすごく表面的で、中身がない。彼女も桐島情報を手に入れることで、優位にたとうとしてる。


体育会系と文化系の対立。
縦のつながりを重視する人たちは、そのトップを失うだけで、これだけの混乱を招く。
けれど文化系はそんなことを一切気にしない。
桐島というトップや絶対的な存在がいなくても、自分たちがそこにいる意味や目的がはっきりとしているから。

下を持ち上げ、上を揶揄しているわけではない。
どちらにも同情しながら、ひとつの軸の絶対性を否定しているだけ。
希望は消えたわけではない。
桐島という個人と野球という団体の対立。
どちらがヒロキに将来を与えるのか。
そういう若者の葛藤を描いた映画だと思うし、考える余地を与える映画だと思う。
思考力を養って、何が正しくて何がちがうのか。
努力を馬鹿というのか、形式を馬鹿というのか。

お母さんは「桐島本当にでてこないの〜?」と言いながら、最後には寝てしまった。
 

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