20130208

Melancholia (2011)


 


今回の映画は2011年公開の「メランコリア」です。
某レンタル屋さんで今現在は準新作でした。久しぶりに準新作~:)
このポスターにもイギリスポイントが!笑
というのも、英人画家ミレーの『オフィーリア』がこのイメージの元なんですが、シェイクスピアの『ハムレット』中の悲劇のヒロインが、このオフィーリアです。


で、映画のこと。
とーーっても面白かったです。私は好きでした。
元から宇宙的なものに興味があるのに加えて、この映画は人間の感情の描写がすごかったのが良い。
もし巨大な惑星が地球を直撃した時、人間はどういった行動をするのか。どういう心理になるのか。
そんな人間の真の姿が、4人の人々を通してリアルに描かれていると思います。




そのリアルさっていうのは、映像にあるのでは。
この手持ちカメラの独特なブレ。序章以降からずっとこの手法なんだけど、それがリアル感を与えていると思う。特に第一章の「ジャスティン」では、これがプラスに働いている。内容はジャスティンの結婚披露宴なんだけども、ここでのポイントはジャスティンの不安定さ。彼女の病的なまでの鬱っぽさが、結婚式のホームビデオに記録されているこの感じ。見てはいけない物みたいな、例えば誰かの日記みたいな、そういう感覚に陥る。ジャスティン自身の得体の知れない、漠然とした不安がにじみ出ていて、それがぶれる画面を通して痛いほど伝わってくる。

そして同時に、これから起こる出来事への緊張感が徐々に増してくる。このなんでもない平凡なカップルの結婚式で、マリッジブルーと言えるような気分になっている新婦。それも、きっとメランコリアの仕業。月が狂気を引き出すというように、メランコリアはその名の通り、メランコリックな(陰鬱な)気持ちをジャスティンに与えている。




このメランコリックな気持ちは、後の第二章で彼女の姉や義理の兄の理性的で科学主義な傾向とはジャスティンが正反対である事をも示唆している。ジャスティンの仕事は広告でのコピーライターで、そこからも彼女が直感や感情を重視している性格だということができる。披露宴の裏で、現代美術といえるような図形だけの無機質な絵を、彼女は直感的に選んだ絵で飾りなおした。上からブリューゲルの『雪中の狩人』、『怠け者の天国』、ミレーの『樵の娘』、カラヴァッジョの『ゴリアテの首を持つダビデ』、そしてまたミレーの『オフィーリア』。(Google image先生より拝借)






これらの共通点としては、(カラヴァッジョを除いて)ブリューゲルはルネサンス、そしてミレーはルネサンスを模範としたラファエロ前派であること。どちらも「人間」を重視する人文主義的な傾向を持っているということになる。無機質で現代的な図形よりも、人間味があってオーガニックな絵を瞬時に並べる彼女の感覚は並みならぬものだとおもう。

第二章では、ジャスティンが超能力的なパワーを持っていることが示唆される(678個のビーンズ)。つまり、彼女はきっと不条理さや偶然や精神を尊重していて、だから秩序がある現代がどこか苦手だった。更に言えば嫌っていたのかもしれない。結婚という制度も、離婚した父と母を見ると分かる。常に親から見放されていた自分が、いずれ親というものになるということ。全く性格があっていない父と母を見ると、ジャスティンも自分とマイケルとの関係について疑わしく思ってしまうのも無理はないと思う。




こんな感じで秩序立っているお庭。科学的な思考が溢れ、欲まみれの世界は彼女には合っていない。そういう、人工的なものに対する不信感や彼女の上司や義理の兄のようにお金と欲を持った人間への不信。それがカラヴァッジョの絵の意味なのかもしれない。巨人を殺すことは、つまり欲にまみれた魔物みたいな男たちに制裁を与えるということ。ここでいうダビデがジャスティンであって、ジャックやジョンが殺されたゴリアテの首。正義(justice)でもってジャスティンが彼らに制裁を与えた、とか?ただ、ジャックは罵倒され、ジョンは侮蔑的な対象だったわけだけども。



クレアという人物も興味深い。
理性的であるような態度を示しながら、実は一番死を恐れている。これがはっきりとわかるのはラストのシーン。最後のシーンで、ジャスティンとクレアと息子ちゃんは、惑星の衝突に備えるわけだけども。三人の死の迎えかたがとてもリアル。クレアは手を放して自分を匿うようにして、おびえている。それに対して、ジャスティンと子供は瞑想しているかのように静か。


こういった感じで前半と後半では、クレアとジャスティンの立場の逆転している。前半ではクレアがジャスティンの面倒をずっと見てたし、後半のはじめの方もそう。けど、段々メランコリアの「死のダンス」が確実である事を知ると、なぜかジャスティンがクレアをなだめるようになる。678個のビーンズの事を話したときに、クレアがジャスティンの所へセラピーに来たみたいな配置になっている。

そういった意味では、科学者側(ジョン)対感情論・精神を重視する側と、大きく二つのグループに分かれていて、どちらが正しいのか。結局は感情に人間は支配されてしまう。科学主義よりは人文主義的なんだろうな、監督さんの見解としては(絵画の所でも説明したように)。お話中にちりばめられている聖書的な要素もそれを裏付けるんじゃないかな、と思う。新しい土地の写真に出てくるりんごの木。ジャスティンのパーティー自体が最後の晩餐的だと思う、旦那さんが裏切りのユダ的人物としてジャスティンを置いて行ってしまうのだから。

ジャスティンだって、聖人なわけじゃないし。
彼女が息子ちゃんに話す時だって、彼女の不安が明白に表れている。




あと、オープニングがとても不条理的で不自然なイメージで面白いと思う。それは異常気象とか、何かが起こる前兆としての「異常さ」を表していると思うんだけど。それらが全てスローモーションで、それに対して速いスピードで交差する二つの惑星を交互に映し出すことで、その後に起こる衝突への焦燥感だったり緊張感を生み出している。
実際、私も目が離せないほど惹きつけられたし、とてもショッキングな映像だった。



音楽の効果もすごいと思う。



ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」。ケルト起源のお話 :)
(地味に2006年の映画ずっと見たいとか思ってたけど見れてない…)

怖くて、絶対何かが起きる!感じプンプンしてドラマチックなんだけど、なだめてくれるような音楽でもあると思う。で、ワグナーの音楽ですが:
この作品は愛の究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするもの(wikiより)
まさに、ジャスティンとか息子ちゃんが最後に求めているもんじゃないのかな(「形而上的な救い」)。

クライマックスの前にクレアは「みんなでテラスでワイン飲みながら最期を迎えよう?」と言うけど、それをジャスティンは拒否する。結局ティピィ(ネイティブ・アメリカンが住んでたテント)みたいなものを作って、布もない無防備な状態のそれで、最期を迎える。

ここでネイティブ・アメリカンを持ってくるなんて…!と思いました。あれだけ西洋の絵画やら科学やら「文明!」と感じさせてくれる物を引っ張っておきながら、最終的には文明でもなんでもない、むしろプリミティブで人間や精神的なものでもって締めくくっている。人間の存在意義とか科学の無意味さが表れてるなーと感じました。



興味深いー。色んなものがうまくちりばめられてる作品だなと思った。
鬱の時以外で、哲学的なものが観たい!
もしくは、綺麗な映像がみたい!方にはおすすめ。
これも北欧系の監督さん。北欧系万歳!


ようやく書き終わった…


★★★★★
Dir. and screenplay by Lars Von Trier (ラース・フォン・トリアー)
Cinematography by Manuel Alberto Claro
2013.01.18.

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